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ゲーマーがコスプレして自転車に乗る

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一年



あれから一年、亡くなられた方のご冥福を祈ると共に、復興にかける願いが成就することを祈ります。

















ここから、震災に関することを振り返ります。しかも、長い。
気持ちのいい話ではないので、嫌悪される方はバックプリーズ。







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一年前の自分の日記を遡った。

今読み返しても、内心動揺しまくってる自分が確かにそこにいた。

一年経った今、記録として残しておこうと思う。まだ記憶が薄れない、今のうちに。

あの時は書けなかった、本当は投げ出したかった気持ちを。




あの日私は東京にいて、実家に帰るために引っ越しの準備をしつつ、東京生活最後の合わせのために衣装製作をしていた。普段通りの日。

揺れて

崩れた本棚

騒然となった寮

7階にあった私の部屋は、体感震度どのくらいだっただろう

避難を告げる館内放送

四年間過ごした寮で、はじめて訓練じゃない避難をした。



緊急避難場所には同じ寮の女の子たちがいて、東北の出身者も何人かいた。

休日だったから、スウェットのまま避難してきた子、携帯も持たずに出てきた子、突然のことにみんなびっくりしていた。

まだ、ことの重大さに気づいていなかった。



どうやら、とんでもないことになっているらしい、と知ったのは、ニュースを見てからだった。

つけられたテレビのニュースにかじりついて、みんなが実家の安否を心配していた。

部屋の隅で泣いている子もいた。体調を崩す子もいた。

仲の良い子同士で固まって、ただテレビを見ていた。

寮で暮らす子はみんな地方出身者。家族と離れて暮らすことの不安を、あの時だれもが感じていた。

どうして私は今、家族と一緒にいられないのだろう?

人生でこれほどの無力感に襲われたことはなかった。



当時はメールが届かなくてmixiだけはアクセスできたから、そこで繋がってる人たちはすぐに無事が確認できた。

幸い、友人のほとんどが無事を確認できた。ほんとうは無事なんかではなかったけれど。地元の友達の行方はしばらくわからなかった。

家に帰れず、会社で夜を明かす友人も、がんばって歩いて帰った友人もいた。

家族は一度メールで無事を確認できた。回線が混雑する前だったから、一通だけメールが届いた。それきり、連絡は途絶えた。


避難が解除されて、引っ越しの準備も続けなくてはならなかったし、用事もなかったので数日は自室に籠った。

ずっとつけっぱなしだったテレビに、地元の映像がちらりと流れた。

中・高と毎日通学したあの道、あの建物が跡形もな崩れていた。衝撃だった。

後から、あれだけ悲惨な壊れ方したのはあの建物だけだと聞いたけど、自分の家もああなっているのかもと思ったらぞっとした。




そして、原発のニュースが流れた。

自宅は、半径50km地点。

近くはないけど遠くもなかった。



表面上は元気だよ、なんて言ってたけれど、毎日毎日夜になると動悸が激しくなって、常に自分の鼓動を感じる。家族は無事なの?

どきどきとうるさい心臓を抑えて、ベッドの上に転がった。眠るのがこわかった。

吐き出したい、でもがまん、自分よりもっともっと大変な友達がいる、家族がいる。

いつ鳴ってもいいように、携帯を握ったまま。

ぽつぽつと情報を流して、少しでも役に立てればいいと思った。何もできない自分がくやしかった。


またいつ起きるかわからない地震に怯えて、夜もテレビだけはつけたまま、現実と浅い眠りの間を行き来した。

朝はいつも体が痛かった。





朝、まったく携帯が繋がらないので、近くの公衆電話から実家と祖母の家に電話をした。無事だった。

本当は地元の友達みんなにかけたかった。でも回線は相変わらず混んでいるから、余計な電話はかけないように自制した。

日に日にわかってくる現地の状況。いっそ早く避難してほしかったけれど、家族は思い出の家を離れられなかった。

弟とも頻繁に連絡をとるようになった。

別々に暮らしてはいるけれど、次になにかあったら、頼るのはお互いだけだった。




結局、足の悪い祖母は、親戚に連れられ一足先に避難した。

物資が足りなくて、祖母も両親も高齢者で、でもみんなが大変な時に支えてくれる人は少ない。

父と母は、ガソリンが足りないのでどうせ遠くまでは行けないと、ぎりぎりまで待機していたけれど、やっぱり精神衛生上よろしくなくて、行けるところまで行こうということになった。のちに父は一か八かだったと語った。



運よく給油して両親は関東の親戚の家に身を寄せた。

父は人づきあいの苦手な人だったので、母方の親戚宅は居心地が悪かったに違いない。

どうしてもだめだったら、新幹線が動いているところまで行って、母だけでも逃がすつもりでいたと、父はなんでもないことのように言った。

なんであの人たちはあんなふうに自己犠牲的なのか。両親のそういうところが嫌いだった。


避難先は、近所に福島出身の人が何人もいて、親切にしてもらえたらしい。

家族が風評被害に合わなかったのは幸いだった。

しばらく滞在した後、家族は地元に帰っていった。やっぱり愛着のある自宅を長く離れることは、祖母には無理だった。




寮を出なくてはならない日が迫って、私は京都に一時的に行くことにした。

実家に続く道はまだ復旧しておらず、引っ越しの見積もりさえお断りされる状況だった。

両親のたっての希望で、色々悩んで、考えたけれど、京都に住んでいた同じ地元の相方を頼って行くことにした。

被害のない場所に行くことで、両親の心の負担が軽くなるのなら。


私はこの時すでにわかっていた。

もう、家には帰れない。あの家で暮らすことはないのだと。

認めたくなくて、辛くて、はじめは渋ったけれど、今は両親のことの方が大切だった。現実を、みなくてはならない。




卒業式の日。

友人のほとんどが大学の体育館に集まった。

卒業式のために仕立てていたドレスは、引っ越しの荷物の中にしまった。

平服で、式もなく、ただ証書を助手の先生から配られた。まるでいつものプリントのように。

最後に記念写真だけ撮った。

楽しくて、いいクラスだった。

私の実家のことを先生も友達も心配してくれた。私も仙台出身のクラスメイトの心配をした。

あの日、帰省する予定だった友達は、新幹線も止まって、一人がこわくて学校の体育館で先生方や大学にいた友達と一夜を過ごしたらしい。みんなこわかったんだ。



新幹線に乗った。

友達が見送りに来てくれた。遊びに行くね、と約束した。

実家に送れなかった荷物は、交渉の末、しばらく寮に置かせてもらうことになった。

もう携帯の緊急地震速報に怯えることはないと思うと、少しだけほっとした。あれは本当に心臓にわるい。



居候先でも、いろいろあった。

ニュースを見ては暗くなり、いまだに余震に悩まされている友人たちの様子を知ってはため息をつき。

引っ越しの手続きでは住所を書くたび微妙な顔をされた。

嫌悪、ではないかもしれないけど、同情したらいいのか、どうしたらいいのかわからない、そんな顔。仕方がないけれど、悪いな、と思う。今でも。



正直、自分だけ遠くに行くことにためらいはあった。

でも、行くと決めて、友人たちにその知らせをした時、たくさんの友達が言葉をかけてくれた。

だいすきで、たいせつな友人たち。

みんなノリが良くて、楽しくて、しょっちゅうバカやっては笑っていた。

その友達が、「行っておいで」って言ってくれて…誰にも見せられない顔になるまでぼろぼろ泣いた。くそう、みんなだいすきだ。




相方がいたから、なんとかやってこれた。いつも振り回してばかりだけど、私のたいせつな友人。

家族と離れて暮らす、同じ地元の友人。同じ立場に立っているような気がして、安心できた。



引っ越した先で、まだ少ないけれど、新しく友達を作って遊べるようになった。

仕事も見つけて、勉強も順調。

あの頃に比べると、少しは記憶も薄れてきた。

越してきてからも悩まされていた地震酔いも、今はもうほとんどない。



笑うふりはできても、本当には笑えない。

本当に辛かったのは、辛いのに辛いといえないこと。

自分よりもっと辛い人がいるのに、弱音は吐けない。

周囲のことを気にもせずに、不安や弱音を漏らせる人たちが羨ましかった。でもやってはいけないと分かっていたから、代わりに怒りだけを抱いた。






今は、ちゃんと笑えてる。

授業のついでに上京して、イベント行ったりオフで遊んだり。

私なんかに比べれば、もっともーーっと大変な思いをした人はたくさんいると思う。

だから被害者ぶる気はないし、同情もいらない。むしろ気を遣わせて悪いなとさえ思う。

でも、その気持ちはその人だけのものだし、比べられるものじゃない。少なくとも、私にとっては十分大変な一年だった。



3.11っていうけれど、この日を辛いだけの記憶にしたくない。

その日が誕生日の人だっている。悲しいだけの日ではない。


でも

まだ終わりじゃない。


まだまだ苦しんでる人はいっぱいいる。

報道されないだけで、終わってなんかいないのだ。


私のように故郷を離れた人は、この一年、生活基盤を築くので精いっぱいだった。

色々あって、やっぱり私は自宅に帰れない。除染が進まないのも一つの理由だ。

原発に近くない分、公共の行う除染からは対象外なのだ。でも、我が家の線量は高い。立地の問題とか、色々あるのだろう。

かと言って、新しく家を建てたり引っ越したりすることはできない。金銭の問題とか、我が家の高齢者の問題とか、家への愛着とか、色々な要素が絡まって、どうしようもないのが現状だ。

両親は、覚悟して自宅を離れない祖母に付き合うことに決めた。


私の仕事も特殊なものなので、地元で働くことは今後30年は難しいだろうと言われている。故郷で働くことを考えて、今まで生きてきたというのに。

きっとその間に私は京都なり東京なりに根を張るのだろう。だから、地元ではもう暮らさない。

決めるまで、一年かかった。あと一年経つ頃には、どこで暮らすのか決めているのだろう。

私は故郷を捨てるのかもしれない。でも、本当の意味で捨てることはできない。

きっといつか、何かの手段で、故郷のためになることがしたい。



この一年で、私は一歩進んだ。でも、まだ終わったわけじゃない。

福島は、除染も、補償も、対策も、何もかも終わってない。


復興?はじめられるわけがない。


まだはじまれない。

私たちはまだ終わってすらいないのだから。
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| 震災 | 14:46 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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| | 2012/03/12 02:37 | |















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